それでもなお書き直したくなって、まったく別の詩になってしまったものもある。
それはそれで、前の詩はそのまま残し、新しくできたものは新しい詩として受け入れることにした。
そのようなケースは、どちらも未完成な詩となってしまった。
過去と現在の、ふたりの自分が作ったふたつの詩を前にして、ぼくはふたりのままで、ふたたび時がたつのを待つよりほかないのだった。
などと、なんだか纏まらないことを、纏まらないまま書いてしまっているようだ。
自分で書いたものでありながら、自分でどうすることもできない。いや、自分で書いたものだから、自分の自由にならないのかもしれない。それが詩というものなんだろう。詩の言葉がもつ呼気や情感というものなんだろう。
完全に自分の手をはなれ、自分の詩を冷静に読めるときがあるとしたら、その時はもういちど、最後に残った、言葉の形骸に躓くときなのかもしれない。
せめてそれまで、せめて自分の中だけででも、自分が発した言葉は生きつづけてほしいものだと思った。